フラメンコに自分はなぜ惹かれたのか?
人に聞かれて答えながら、「なんでフラメンコに惹かれたのか?」と今でもふと思う時がある。
自分は小さい頃から変なところで引っ込み思案でウジウジしてるので、小学校の頃はいじめにもあった。
ましてや、どう見ても人前に出て何かをやるタイプではなかった。
音楽の授業は小学校の頃から好きじゃなかったけれど、中学で決定的に嫌いになった。
特に合唱コンクールは学校行事の中でも大嫌いなイベントで、その理由はクラスの進め方だった。
クラスではできない人をなおしていくっていう方法だったから、はじめは全員で歌わせて良くできてる人から順に抜けていく。
声が通らない自分は、頑張って歌っても「お前 歌ってないだろ!」と言われて、ほぼ毎回最後の2、3人になるまで残されて
しかも罰のつもりなのか皆んなの前で歌わされるので、顔が真っ赤になって余計に笑われる。
恥ずかしいっていう気持ち以外に何も残らないイヤ〜な時間だった。
だから、高校時代までの友達が今フラメンコの歌をやっている事を知ると
「フラメンコ!? しかも歌!!?? なんで?」とみんな驚く。
当然だと思う。自分でも不思議なくらいだから。
そんな自分が、生まれて初めてフラメンコを観たのは大学2年の秋、20歳の時で大学の文化祭でいったフラメンコサークルのライブだった。
「へぇ結構かっこいい音楽なんだなぁ」とは思ったけど、まさかその後自分がやるなんて夢にも思わなかった。
年が明けて3年生になる前の春休み、1週間の予定でスペインへに行った。初めての海外旅行だった。
スペインを選んだことにフラメンコは全く関係なくて、好きな画家がスペイン人だった事と なんとなく「スペイン」っていう響きに惹かれたという簡単な理由だった。
行く先はバルセロナ。
スペインの中でもバルセロナを選んだのは、他にもバルセロナに観たい美術館があった事、
ガイドブックで見たサグラダファミリアや地中海沿いの開放的な街並みに興味を惹かれたのが理由でバルセロナに即決だった。
高校時代にテレビで観たバルセロナ五輪のイメージが残っていた事もあると思う。
初めての外国は刺激のオンパレードで1週間の滞在はあっという間に後半に突入して、
「あぁ もう帰国かぁ。。」なんて思っていたころ、確か4日目の晩にフラメンコを観に行った。
有名なタブラオ「コルドベス」。バルセロナの押しも押されぬ名店でその時はエル・トレオが踊っていた。
そのショーで何より鮮烈に記憶に残ったのは、
前の年に文化祭で観た時には踊りや歌、ギターに隠れてほとんど記憶にも残らなかった「パルマの音」だった。
今まで聴いた事のない気持ちのいい音に興奮して、ホテルまでパルマを叩きながら歩いた。
日本に帰って4月になるとフラメンコサークルに入ることに決めた。
別に「スペインのフラメンコに刺激を受けて熱意に燃えた!」からではなく、
なんとなく手持ち無沙汰だったので入部してみたら意外に面白かったっていう感じだった。
そんな流れで3,4年次はフラメンコ部のメンバーとして過ごしたんだけれど、
歌を先輩やプロの人に教えてもらったり、高田馬場のパセオに通ってはCDを探したり、
そこまで本格的でないにしてもそれなりにフラメンコに興味をもっていた。
でも、これだけならまだフラメンコにハマる事はなかったと思うし、
実際、自分自身「大学を卒業したら、なんとなくやめるんだろうな」なんて思っていた。
ところが、自分がフラメンコにどっぷりハマってしまうのが、会社勤めしてからだとは全く予想もできなかった。
六本木にあった広告プロダクションに入り、新米グラフィックデザイナーとして働いていた。
細かく言うと代理店のデザイナーが大まかに決めたアイデアを実際にカタチにして行く仕事だった。
と言っても、新卒の自分は完全なるアシスタントだったんだけど。
自分が所属したチームは、タワーレコード「NO MUSIC,NO LIFE」の雑誌広告やポスター制作なんかもやっていて
会社の中でも比較的音楽系の仕事が多く、そのせいかスケジュールもかなりタイトだった。
広告業界にはよくあるブラック企業で、月〜金まで半分は終電帰り、後の半分はタクシー帰り。
たまに20時頃に終わろうもんなら何をして良いか分からなくなるくらいだった。
一番しんどかったのは予告なく週末出勤が決まることで、
月曜から金曜の夕方まで特に大きな動きなく仕事が進んでいて、あと数時間で週末だぁなんて思っていても、
金曜の夜22時にFAXが一枚流れてきて「週明けの月曜 朝9時にクライアントプレゼン決定」が分かると、
自動的 & 問答無用に週末出勤が決定して、本当に寝る間もなく月曜の朝8時頃まで仕事というのが度々あった。
ファックスで週末出勤が決まると、まず上司から「ゆっくりご飯食べてきていいよ」と言われる。
「食べ終わったら、そこからノンストップだぞ」と言われてる様なもので、ご飯の味も不味く感じた。
ゆっくりって言ってもそんなにお金もないし、大抵会社近くの店で定食を食べた。
そして、注文を待つ間にその週末に約束をしてた友達に予定キャンセルの連絡、、、、
何かをやりたいのに、自分でも把握できないモヤモヤした焦りがあるのに、
友人と会う時間も自分の自由にできる時間もとても少なかった。
今にして思うとあまりに世間知らずなんだけど、
「世の中でこんな無味乾燥に毎日を生きてる人って何人いるんだろうか?」と本気で考えていた。
仕事で会社に泊まらないといけない時、
明かりを消して外から差し込む朝日の中で眠りに着く前に聴いていたのが、
ミゲル・ポベダの「Viento del este」(東から吹く風)だった。
1995年にリリースされたミゲルのデビュー作。
その前の年にムルシアで開催されたラ・ウニオンのコンクールで最高賞のランパラ・ミネーラ賞をはじめ数部門の賞を独り占めにして一気に脚光をあび、
その当時のフラメンコのトップレーベルであるヌエボス・ディスコスから声がかかったのだ。
内容は本当に飾り気が無く、今聴くともの足りなさを感じるほどなんだけど、
いわゆるスターたちのような煌びやかさも、ヒターノたちが漂わせる慟哭のような鋭さもない代わりに、
ごく普通の生活を送る日本人の自分にも共感できる「切なさ」があった。
本当に疲労の限界ですぐにも寝たいのに、
思わず聴き入ってしまって気づくとCDが4周目に入っていて慌てて寝たこともあった。
特にカルタヘネーラやティエント、トナーは何故かその時の自分にしっくりきていた。
伴奏もモライート・チーコやぺぺ・アビチュエラたちが渋く固めていて、2作目以降とは一線を画している。
ミゲル・ポベダという人を初めて知ったのは1997年の冬。 大学4年の時。
その頃、ドゥケンデとトマティートのCD「Duquende」を良く聴いていて、小島章司さんが公演にドゥケンデを招聘したと聞いて楽しみにしていた。
本当にかっこよくて、歌詞なんかほぼ何も聞き取れなかったけど、休みの日はスタジオを借りて大声でマネ?をしていた。
そんなわけで、
ところが当日会場に行くとなんと「ドゥケンデは急遽来日できなくなった」と張り出されていた。
待ちに待っていただけにかなり意気消沈して、チケットも安くはなかったけど帰ろうか本気で迷った。
そしてその時、ドゥケンデの代役として来日したのがミゲルだった。
「で、ミゲル・ポベダってどこの誰?」と思って席についたのに、舞台が始まり彼の声が会場に響くとその魅力に圧倒された!
初めて聴く第一線で活躍するカンタオールってこともあっただろうけれど、ミゲルの声はそれまで経験したことがないタイプの声だった。
細い一本の線が、2階席の奥の自分の座ったところまで伸びてくるような声だった。
さっきまでのがっかりは忘れ去って、一発でにファンになった。
舞台の最後、遠くに小さく見えるミゲルに向かって、当時の自分としては勇気を振り絞って「ミゲール!!!!」とハレオをかけたのを覚えている。
その後、すぐにCDを買いさっきの話になるんだけれど、、、
今から思うと自分がここまでフラメンコにハマったのは、
ミゲル・ポベダの歌を(CDだけど)何度も何度も聴いたあのモンモンとしていた時期が、原動力になったんだと思う。
かっこよく言えば、しんどい毎日にフラメンコが光をあててくれた気分だった。
「頑張れ!」と「大丈夫だよ!」って語りかける『同情や励まし』の歌じゃなくて、
その歌の世界に「共感」できたから、感動できた。
もちろん、いろいろなタイミングに恵まれて歌で仕事をすることができたから、
それはフラメンコだけに集中してやってこれた大きな理由で感謝している。
でも、一番は会社員時代にそれまでの自分の人生になかったストレスの中で、
『この道を続けていくか、どうか 早く決めないと人生が終わってしまう』という怖さを感じながら聴いた
「あのCDの音」が自分の原点で、今に到るまでいろんな変化をしてきたけれど、自分のフラメンコの大事な部分にあるのは間違いない。
その後、以前とは比べ物にならないくらい
出逢う人も訪れる場所も増えたし、自分にとってとても大切な人達とも知り合えた。
物事はどうやっても自分の感性でしか観ることも聞くこともできないけれど、
自分の人生とフラメンコの音が重なった瞬間を経験した分だけ
これからもフラメンコを好きになっていくと思う。
阿部真
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